想像のかけら

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自作小説と三国志を中心に、関心事などを投稿します。是非お立ち寄り下さい。

三国志【曹仁】曹操を旗揚げから支えた歴戦の勇将

-目次-

曹操の挙兵時から従う武将

 曹仁は、曹操の養祖父である曹騰(そうとう)の長兄・曹褒(そうほう)の孫にあたり、曹操とは直接の血縁はありません。

190年、各地で董卓討伐の兵が挙がった際、1000人余りの若者を集め、暴れまわります。その後は曹操の配下に入り、別部司馬・行厲鋒校尉に任じられます。

曹仁は武勇に優れ、若い頃から弓術・馬術・狩猟を好み、荒々しい性格でしたが、成長して武将になると、法律を厳格に守り、周りの模範になるよう振る舞ったようです。

 

騎兵を率いて各地を転戦する

 193年の袁術との戦いでは、多くの敵兵を討ち取り、捕獲する等の手柄を立てます。更に陶謙との戦いでは、騎兵を率いて先鋒となり、別軍を指揮して陶謙の部将である呂由を破ります。本軍に合流した後も、大いに功績を挙げています。曹操が費・華・即墨・開陽を攻撃した際は、陶謙が援軍を派遣しますが、曹仁は再び騎兵を率いて、これを打ち破りました。

 194年からの呂布との戦いでは、別軍を指揮して句陽を攻め落とし、呂布の部将の劉何を捕虜にします。

 196年には曹操が黄巾賊を討伐し、献帝を迎えて許昌を都に置いた際、曹仁はしばしば功績を立て、広陽太守に任命されます。しかし、曹操は曹仁の勇気と智略を評価していたので、広陽郡に赴任させずに、騎兵隊を指揮させています。曹仁の騎兵隊が、それだけ優れていた事が伺えます。

 

不利な自軍を励まして奮闘する

197年、曹操が降伏させた張繍(ちょうしゅう)の父の未亡人を側妾にしたため、張繍が反乱を起こします。張繍との戦いで、曹仁は別軍を指揮して攻撃し、男女三千人余りを捕虜にします。曹操が撤退中に張繍の追撃を受けた際、曹昂・曹安民・典韋を失い、軍の士気は低下しますが、曹仁は指揮下の将兵を励まし、奮闘します。曹操は曹仁の働きに深く感謝し、後に張繍を帰順させる事に成功しました。

曹操に進言して勝利に導く

 200年、曹操と袁紹が決戦した際、当時袁紹の下にいた劉備が、多くの諸県を袁紹側に寝返らせていたため、曹操は不安になりました。曹仁は曹操に対し、「劉備が指揮しているのは袁紹の兵ですから、その運用に慣れておらず、戦えば勝てます」と主張し、曹操はこれを受け入れます。曹仁は騎兵を指揮して劉備を破り、離反した諸県を全て帰還させる事に成功します。

 205年、袁紹の甥・高幹の立て籠もる壷関を包囲した際は、曹操は「敵は一人残らず穴埋めにせよ」と命令しますが、攻め落とす事に苦戦します。これに対し曹仁は「城を囲む時には必ず、生きる道を開けておくものです。必ず殺すことを告げて固い城を攻めるのは、良策ではありません」と進言します。曹操がこの意見に従うと、敵は降伏し、曹仁はこの功績により都亭侯に任命されました。

 

曹仁、敗北を知る

 208年、天下統一を目指して南下した曹操軍を、孫権・劉備の連合軍が迎え撃った事で赤壁の戦いが始まります。行征南将軍に任じられた曹仁は、南郡を守り、孫権軍の都督周瑜と戦います。

周瑜が数万の兵を率いて攻めて来ると、曹仁は部将の牛金に300の兵を与え、周瑜軍の先鋒の6000騎の軍勢と戦わせますが、牛金は包囲されてしまいます。これを見た部下の陳矯(ちんきょう)らは青ざめましたが、曹仁は激怒し、陳矯の制止を振り切って、直属の精鋭数十騎を引き連れ、敵陣に突入します。果敢に牛金を救助した後、取り残された兵がいたので再び敵陣に突入して救出しました。動揺した敵軍は後退し、陳矯らは曹仁の勇敢さを「将軍は真に天人の様だ」と称賛しました。

 更にこの戦いで、周瑜の肩に矢傷を負わせ撤退させると、曹仁は周瑜が病に倒れた事を聞き、これを追撃しようとします。しかし、周瑜が姿を現した事で、曹仁は攻撃を中止して退却しました。曹仁は周瑜に重傷を負わせる等、善戦しますが、最後は周瑜・劉備らに敗れ、南郡を失いました。

 

関羽から樊城を死守する

 218年末、当時曹操の支配領だった荊州南陽郡で事件が起こります。劉備配下の関羽と通じていた豪族の侯音らが、過酷な軍務を理由に謀反を起こします。曹操軍に動揺が走った事を勝機と見た関羽は、219年に南陽郡に進軍します。

関羽の進軍を知った曹操は、樊城(はんじょう)を守備する曹仁の下に、于禁を大将にした7軍を援軍として派遣し、曹仁も龐徳(ほうとく)を遊軍として城外に出して関羽と戦わせますが、長雨で川が氾濫し、7軍は水没してしまいます。于禁は高地に上ることで難を逃れますが、関羽が水軍を使って攻撃してきたので、3万の兵と共に降伏。一方龐徳は、最後まで抵抗を続けますが、関羽に討ち取られます。

更に兵糧攻めに遭った事で、食糧も尽きかけ、数千の人馬しか残っていない危機的状況の中、曹仁は満寵(まんちょう)と共に徐晃の援軍が到着するまで軍規を徹底し、兵を鼓舞して、その猛攻を防ぎ切ります。徐晃が外部から関羽を攻撃すると、曹仁も城から出て関羽を攻撃し、関羽を撤退させる事に成功しました。

 

曹操に代わり、曹丕が魏王に即位すると221年、曹仁は大将軍に任命され、次に大司馬に任命されました。56歳で亡くなると忠侯と諡され、子の曹泰がその後を継いでいます。

 三国志演義の曹仁は、負け戦も度々描かれており、損な役回りが多い印象ですが、正史の曹仁は騎兵を得意とし、戦場を転々として数多くの勝利をもたらしています。曹一族随一の五将軍の活躍にも匹敵する、男気溢れる武将と言っても過言ではないでしょう。

清代の曹仁の肖像

清代の曹仁の肖像

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小説【人には言えない①】

 俺には周りの人間に秘密にしている事がある。家族、友人、職場の人間、勿論妻にも決して知られてはならない。なぜなら俺の男としての沽券に関わる事だからだ。端的に言うとそれは女装癖である。まさか30歳を目前にして女装に目覚めるとは思ってもみなかった。だが困った事に、今の俺の女装への情熱は留まる事を知らないのである。快感と誰かに知られる事への恐怖が入り乱れる修羅の道。理解者が周りにいるとも思えない。断言しよう。女装を肯定する者、即ちそれ聖人または余程の変わり者であると。では俺は

 それは些細な事だった。その日は仕事で理不尽に怒られた事と、最近細かいミスが積み重なってストレスがピークに達していた。帰宅すると妻は留守の様だった。机の上には妻の化粧品が散乱している。

「もぉー。出しっ放しなんだからー」

不満を漏らすも特に片付ける事なく、俺は晩酌を始めた。この怒り、全て酒で洗い流す。こういう日は飲むに限る。しかしちっとも気持ちが落ち着かない。もうなんだってええわという投げやりな気分で、俺は妻の化粧品を手に取り、適当に自分の顔に塗り始めた。理由は特にない。ただ他にやる事がなかったのだ。化粧品の事など一切分からなかったが、塗れば何だって一緒なのだ。一通り終わってからふと我に返った。全く今日の俺はどうかしている。妻が帰ってくる前にメイクを落とさねば。水で洗い流す前に俺は、自分の顔をまじまじと鏡で見た。

ん、案外悪くないんじゃないか。直感的にそう思った。気分が悪いので不機嫌そうな表情をしていたはずだが、実際に鏡に映った顔は幾分か余裕のありそうな感じに見えた。酔っていたからそう見えただけかもしれないが。磨けば輝く原石かもしれん。俺の内に潜む素晴らしさを化粧によって際立たせる事は出来ないだろうか。そう思った。ダメダメ、何考えているんだ俺は。とにかく化粧を落とすのが先だ。妻が帰ってくる前に。

 「ただいま」

「おかえり」

 化粧品はなるべく元にあったであろう場所に置いた。怪しまれずに済んだようだ。妻もまさか俺が数分前まで化粧をしていたとは思いますまい。

「晩酌やってんの?」

「うん。一緒に飲もうよ」

それから俺はもう少しだけ飲んだ。この日を境に自分が女装に目覚めるとは誰が想像できただろうか。

 この三週間後。妻とデパートに行った時の事。化粧品を買いに行くようなので、俺も同行した。妻が買う物を選んでいる間、俺も適当に見てみる事にした。普段は何も思わなかったが、色々な化粧品があるんだなと思った。値段もピンキリの様だが、何がそんなに違うのだろうか。メーカーも知らない物がほとんどだった。

「お待たせ。そんなに真剣に眺めてどうしたの?」

「いや、行こうか」

妻は、いつも使っている化粧品とは違う物を買ったようだった。たまには冒険しようと思ったらしい。俺はこの言葉を聞いて一つ決断した。俺も冒険してみようと。密かに自分の使う化粧品を買おうと決めたのだった。化粧を初めてした時の不思議な感覚。その感覚をまた味わえれば。踏み出す必要のない冒険なのは言うまでもない。

 

 妻曰く、化粧品は自分に合う、合わない物があるようだ。新しく買った物は、以前使っていた物より合うらしい。正直俺には、前と今とで何が違うのか分からなかった。

さてどんな化粧品を買えばいいのか。化粧品はスキンケアとメイクアップのための物がある事、アイテム別の役割や細かな違い等、買う前に色々調べたが、『安い おすすめ』か何かで検索し、ネットで最低限の物だけを買う事にした。道具に特にこだわりはない。俺は何も女性になりたいわけでもなければ、高い完成度を目指しているわけでもない。ただ普段とは一目違った自分に会いたいだけなのだ。そこを勘違いしてはならない。妻には知られないよう細心の注意を払った。

さて注文した道具も徐々に揃ってきたが、ウィッグを買うのを忘れていた。髪型を変えるのは必要不可欠である。やはり髪型一つで印象は変わるものだ。ロングのウィッグをネットで注文した。何でもネットで買えるいい時代だと痛感した。 

 数日後、道具も全て揃いここから本番である。早速メイクと行きたいとこだが、やり方が分からないので、まずは化粧の仕方を調べなければならない。実践を学ぶには動画が一番分かりやすいだろう。とはいえ妻がいる前では見れないので、20時頃迄待つ事にした。

20時、妻の入浴時間。シャワーの音が聞こえたのを確認した後、早速YouTubeを開いた。皆さんはご存知だろうか。YouTubeには女性のメイク動画が溢れている事を。芸能人から素人まで、その投稿は様々である。これを参考にしない手はない。動画の時間もほとんどが10分程度なのも有難い。再生数の多い素人の動画をいくつか見てみる。

「色々あるんだなぁ」

「そんなの見てどうするの?」

「ひぇぇぇぇー。いつ上がったのよ?」

「さっきだけど。へぇー、そういう子がタイプなんだぁ」

動画に夢中になり過ぎた。イヤホンをしていたので、妻が上がった事に気付かなかった。危うく勉強中と答えるところだった。

「いや、なんか突然あなたへのおすすめで出てきた動画なんだけど、たまたま指が触れちゃって再生したところを運悪くお前に見られただけなんだ。だからこの動画を再生したのは俺の意志ではないんだ」

「どうだかね」

「風呂入ってくるわ」

不覚だった。でも咄嗟にあの答えが出たのは奇跡だった。幸い見られたのが動画を見てた時で良かった。もしメイク中だったら終わっていた。しかし妻は妙に鋭いところがある。これからはもっと慎重にならねばいかん。俺の尊厳にかけて。

この日の出来事は俺の気を十分に引き締めた。そしてメイク遂行への想いが高ぶっているのを感じた。

 

②に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勝手に厳選!なんか笑えるオタク川柳

どこか哀愁のある川柳たち

・アイドルに MajiでKoiする 50前  

・なんでだろ 昔戦隊 今変態

・いいじゃない 通貨も彼女も 仮想でも

・この知識 オタクに普通 世に不通

・アニメ観て 泣く俺を見て 母が泣く

・二児の父 夜に見るのは 二次の乳 

・究めても 褒めてはもらえぬ 修羅の道

・プリキュアを 娘卒業 父現役

・パソ消して 消える美少女 映るデブ

・母ちゃんが パンツを履かせた 抱き枕

・多趣味だが 人に話せる 趣味はない

・気をつけろ オタクは急に 黙れない

・二次元と 筋肉だけは 裏切らない

・「いつやるの?」 聞かれ即答 「いつかやる」

・握手会 イケメン2分 オレ5秒

・やめなさい 胸に沁み入る 母の声

 ・生活の レベルを下げて レベル上げ

 ・39(三重苦)金なし嫁なし 焦りなし

 ・ブックカバー 本と己を 守るため

 ・味付けと 本は薄めの ほうがいい

 ・博識と オタクの違い 顔だけです

 ・人生を ハードモードで プレイ中

・聞いてない 誰もそこまで 聞いてない

・同じ本 取ろうとする手に 出逢いたい

・人生は 山あり谷あり 沼もあり

・実写化は やめてとあれほど 言ったのに

・いやいやいや 上には上が いますので

・実物大? 実物ないのに 実物大?

・「ツイッターより まともですね」と褒められる

・バレンタイン(笑) 花火大会(笑) クリスマス(笑)

・ありがとう 推しが生きてる それだけで

*上記の川柳は『あなたが選ぶオタク川柳大賞』から引用しています。

 

勝手に感想書いていきます

 オタク川柳はどこか残念さが漂いながらも愛しく、クスッと笑えるのが特徴ではないでしょうか。「母」という単語が入るだけで、心に刺さるものがありますね。母親に隠してるオタク趣味を知られたり、泣かれたりした日には気が滅入りそうです。

 『二児の父 夜に見るのは 二次の乳 』。既婚の方の見事な一句。奥さんと子供が寝てから、こそこそ観ているんですかね。結婚して子供がいても尚、乳への情熱は全く冷めていないことを思うとなんだか笑えます。子供からしたら、父親にそんな一面があるなんて絶対に知りたくないですね。男の沽券にかけて、何としても隠し通さないといけない罪深い一面だと思います。

 『アイドルに MajiでKoiする 50前』。広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』に掛けた一句。笑いました。好きになってしまったしまったものはしょうがないですね。僕も社会人になって癒しを求めているうちに、乃木坂46というアイドルグループを好きになってしまいました。いつ、どんなタイミングで、誰を好きになるかは分かりませんね。

 『パソ消して 消える美少女 映るデブ』。自分にも似たような場面があります。スマホやパソコンを切った時に唐突に現れる、にやけた自分や覇気のない表情が爽やかさの欠片もなかった時、電車の窓に映る自分の顔が、おっさんそのものだった時等、ふとした拍子に垣間見る自分が、思っている以上にひどい顔だった時は萎えました。日常のふとした1コマを表した哀愁のある一句ですね。

 オタク川柳。検索してみてはいかがでしょうか。好きな一句が見つかるはずですよ。

第13回 あなたが選ぶ オタク川柳大賞

 

カフカの名言が度を越したネガティブで笑える

フランツ・カフカとは

チェコの作家。プラハ生まれのユダヤ人で、法律を学んで労働者災害保険局に勤務しながらドイツ語で小説を書いた。人間存在の不条理性を表現した作品を残し、実存主義文学の先駆をなした。作品「変身」「城」「審判」「アメリカ」など。(1883-1924)

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 ネガティブ過ぎるカフカの名言

将来に向かって歩くことは、僕にはできません。将来に向かってつまづくこと、これはできます。一番上手くできるのは、倒れたままでいることです。

バルザックの散歩用ステッキの握りには、「私はあらゆる困難を打ち砕く」と刻まれていたという。僕の杖には、「あらゆる困難が僕を打ち砕く」とある。共通しているのは、「あらゆる」というところだけだ。

幸福になるための、完璧な方法が一つだけある。それは、自己の中にある確固たるものを信じ、しかもそれを磨くための努力をしないことである。

全てお終いの様に見える時でも、まだまだ新しい力が湧いてくる。それこそお前が生きている証なのだ。もし、そういう力が湧いてこないなら、その時は全てお終いだ。もうこれまで。

いつだったか足を骨折したことがある。生涯で最も美しい体験であった。

僕はいつだって、決して怠け者ではなかったと思うのですが、何かしようにもこれまではやることがなかったのです。そして、生きがいを感じたことでは、非難され、けなされ、叩きのめされました。どこかに逃げ出そうにも、それは僕にとって、全力を尽くしても到底達成できないことでした。

僕は彼女なしでは生きることは出来ない。しかし僕は、彼女と共に生きることも出来ないだろう。

誰でも、ありのままの相手を愛することは出来る。しかし、ありのままの相手と一緒に生活することは出来ない。

僕は父親になるという冒険に、決して旅立ってはならないでしょう。

ちょっと散歩をしただけで、ほとんど三日間というもの、疲れのために何もできませんでした。

一切の責任を負わされると、お前はすかさずその機会を利用して、責任の重さのせいでつぶれたということにしてやろうと思うかもしれない。しかし、いざそうしてみると気付くだろう。お前には何一つ負わされておらず、お前自身がその責任そのものにほかならないことに。

僕は人生において必要な能力を、何一つ備えておらず、ただ人間的な弱みしか持っていない。

もう五年間、オフィス生活に耐えてきました。最初の年は、民間の保険会社で、特別にひどい物でした。僕の事務所に通じる廊下で、僕は毎朝、絶望に襲われました。僕より強い、徹底した人間なら喜んで自殺していたでしょう。

生きることは、たえず脇道に逸れていくことだ。本当はどこに向かうはずだったのか、振り返ってみることさえ許されない。


 上記の名言は、頭木弘樹著『絶望名人カフカの人生論』から引用しています。

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著書の紹介

 絶望名人とタイトルにある通り、カフカの絶望感が惜しみなく紹介されている珠玉の著書。前向きな発言はなく、一貫してネガティブなのが笑えます。

 左ページにカフカの名言、右ページに著者頭木氏の解説が載っています。恋人や親に宛てた手紙等、どんな時にカフカが記したのか、その関係性も分かって面白いです。また、将来に絶望した、自分の心の弱さに絶望した等、カフカの様々な絶望が各単元にまとめられているのも地味に笑えます。ネガティブなだけでなく、ユーモアや思わず共感してしまうものも多々あり、落ち込んでいる時や上手くいかない時等に読むと思わず心が軽くなります。

 僕が大学生で就活中の時、本屋でたまたま見かけて購入し、目当ての就活本は買わずに帰った事を思い出します。社会人になった今でも定期的に読みたくなる一冊です。読みながら、自分の隠れた才能も、このカフカの名言の如く突き抜けてくれないかなと思うこともあります。

 ポジティブでいることに苦しさを感じた時、元気を出したい時や、くすっと笑える本を読みたい時等に、読んでみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三国志【賈詡(かく)】洞察力と先見性に優れた策士

-目次-

 董卓配下として登場

 始めは政府の官職に就きますが、後に董卓配下となった賈詡は、董卓が洛陽に入ると校尉となり、董卓の娘婿である牛輔の軍に付きます。董卓が呂布・王允(おういん)らに殺され、牛輔も殺されると、同じく牛輔の下にいた李傕らは逃亡しようとしますが、これを説得し李傕らに策を授け、長安を攻めさせて呂布を追放し、王允を殺して長安を奪回させる事に成功します。

賈詡は混乱した政治の改善に努めますが、李傕に警戒され、次に張繍(ちょうしゅう)に仕える事になります。

 

曹操の刺客として立ちはだかる

 張繍も元々は董卓配下でしたが、曹操に降伏した武将でした。ところが、曹操が亡き族父の妻であった未亡人を側妾にしたため、張繍は恨みを抱くようになり、曹操は張繍が恨んでいる事を知ると、密かに張繍を殺害する計画を立てます。これを知り、反乱を決意した張繍に策略を進言したのが賈詡です。張繍は軍を移動させるのに、武装したまま曹操の陣営を通過させて頂きたいと申し出て、信用した曹操はこれを許可しました。奇襲を受けた曹操軍は総崩れとなり、曹操はかろうじて脱出するも、曹昂と典韋、曹安民を失う事になりました。

 曹操と袁紹が官渡で対峙した際、張繍を味方に引き入れようとする袁紹に、張繍が応じようとすると、賈詡は曹操に降伏するよう勧めます。「袁紹の方が曹操より強大であり、その上曹操とは仇敵の間柄ではないか」と主張する張繍に対し、曹操が天子を擁している事、弱小である曹操だからこそ味方になる勢力を必ず厚遇する事、天下を狙う曹操なら個人的な恨みを水に流す事で、自分の徳を内外に知らしめようとするに違いない事などを理由に挙げます。

張繍は賈詡の意見に従い曹操に降伏すると、賈詡の言った通りに曹操は彼らを優遇しました。賈詡は執金吾に任じられ、以後は曹操の参謀として仕える事になります。

 

曹操配下として活躍する

 200年、官渡の戦いで袁紹軍の許攸が降伏し、袁紹軍の兵糧輸送隊の守備が手薄な事を暴露して、そこに奇襲をかけるよう進言してきた際、曹操の側近の多くが許攸の発言を疑いますが、賈詡は荀攸(じゅんゆう)と共にこの意見を支持しています。曹操は彼らの意見に従い、自ら5000人を指揮して奇襲を成功させ、袁紹軍に勝利しました。この功績が認められ、賈詡は太中大夫に転任しています。

 211年、曹操が漢中の張魯(ちょうろ)を討伐しようとした際、馬超・韓遂らが自分達の領土が攻められると、疑念を抱いた事をきっかけに潼関の戦いが始まります。韓遂を中心に西涼の勢力が集まり、曹操は馬超・韓遂との戦いを余儀なくされます。西涼軍は非常に強く、西涼軍有利で戦いは過激化していき、曹操軍は追い詰められていきます。曹操自身も危うく、馬超に討たれそうになります。

そこで曹操に「離間の計」という策を進言したのが賈詡です。曹操はまず韓遂に、昔の顔なじみで一対一で話がしたいと持ち掛け、韓遂はこれに応じます。他愛もない会話をしただけでしたが、馬超は韓遂を疑い始めます。次に曹操は韓遂に、要所要所で曖昧な表現を使い、文字を修正している箇所をわざと作った手紙を送ります。手紙を見た馬超は、韓遂が自分に知られては困る内容を修正したのではないかと更に疑心暗鬼に陥ります。韓遂自身も勿論、なぜこんな手紙が送られてきたのか分かりませんでした。

そして韓遂が裏切ったと思い込んだ馬超は、韓遂に切りかかったのです。韓遂自身は左腕を切られ、部下も何人か失い、この事がきっかけとなって西涼軍は崩壊しました。その後、韓遂と一部の武将は曹操に降伏しています。馬超と韓遂を仲違いさせる事に成功させ、自軍を危機的状況から勝利に導いたのが賈詡です。

 

後継者選びで曹操に助言する

 曹操の後継者を選ぶにあたっては、家臣の間では長男の曹丕派と、三男の曹植派とに分かれ、盛んに議論が起きていました。曹操から相談を受けた賈詡は即答せず、ただ「袁紹と劉表の事を考えておりました」とだけ答え、袁・劉両家が強大な勢力を誇りながらも、長男以外を後継者にした事で国を分裂・混乱させ、滅ぼされた事を暗に示唆します。賈詡の助言を聞いた曹操は大笑いし、長男の曹丕を太子としました。

 曹丕が文帝として即位すると、大尉に任命されますが、賈詡は自分の立場をわきまえ、警戒心を抱かれないようひっそりと暮らし、私的な交際をしなかったといいます。77歳で亡くなった賈詡は粛侯と諡されました。

 

清代の書物に描かれた賈詡

清代の書物に描かれた賈詡
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三国志【凌統(りょうとう)】孫権を窮地から救った勇将

-目次-

 15歳で父の後を継ぐ

 父の凌操は孫策・孫権に仕えた武将でしたが、203年、黄祖討伐戦で流れ矢に当たり命を落としてしまいます。孫権に凌操の功績を称えられた凌統は15歳の時、別部司馬に任命され、行破賊都尉として父の軍勢を率いる事になります。

 206年の山賊討伐に参加した際、凌統は督である陳勤の好き勝手な振る舞いを咎めたため、陳勤から怒りを買ってしまい、自分や父の凌操を罵られてしまいます。凌統は涙を流しながら堪えていましたが、その悪口が帰り道にまで及んだため、我慢できなくなり陳勤を斬りつけます。
陳勤はその傷が元で死亡し、責任を感じた凌統は、死んでお詫びするしかないと敵軍に猛烈に突撃し、敵軍をさんざんに打ち破りました。凌統は自首しますが、孫権はこの話を壮快に思い、功績を称え罪を許します。

 

黄祖討伐戦で手柄を立てる

 208年の夏口での黄祖討伐戦では、凌統は董襲(とうしゅう)と共に先鋒となり、数十人の兵を従えて、一隻の船で本隊から数十里も離れたまま航行し、黄祖配下の張碩を討ち取り、水兵をことごとく川に落とします。本隊に戻った凌統は孫権に状況を報告し、手勢を率いて全速で進航したので、凌統と孫権の水陸両軍が一斉に集結する事になります。この時、呂蒙が黄祖の水軍を打ち破り、更に凌統が率先して城を叩いたため、黄祖の城は遂に陥落しました。その後、孫権は黄祖を討ち取る事に成功しています。この功績で凌統は承烈都尉に任命されました。

 この黄祖という人物は、孫権の父、孫堅に攻められた際、配下の武将が彼を射殺した事で、孫権から仇として狙われる羽目になった少し気の毒な人物です。更に、孫権配下の甘寧は元々は黄祖に仕えており、凌統の父、凌操を弓で射殺した張本人なので、凌統から恨まれていたのです。凌統と甘寧の関係は、最後に記載します。

 

張遼の猛攻から命懸けで孫権を救う

 215年の合肥の戦いで、劉備陣営との抗争が一段落ついた孫権は、自ら10万の大軍を率いて合肥に進攻します。この時合肥城内には、曹操配下の張遼・楽進・李典がいましたが、兵は7000程しかおらず、3人は不仲だったため孫権が有利に思われました。しかし3人は一致団結し、張遼は800人の精鋭を率いて、明け方に孫権の本陣に斬り込み、孫権の目前まで迫ります。前線にいた孫権は被害を出しながらも、張遼の挑発には応じず、張遼の軍を包囲しました。

しかしここで孫権軍にとって想定外の事態が起こります。張遼は左右を指差し左右から包囲を突破すると見せかけ、孫権軍の意表を突いて包囲の中央を強襲したのです。張遼以外は数十人の兵しか脱出する事が出来ず、包囲の中に取り残された兵たちが「将軍は我らを見棄てられるのですか」等と叫んでいるのを聞いた張遼は、再び包囲に突撃し残された兵を救出しました。

 戦いは明け方から日中まで続き、張遼の凄まじい攻撃に戦意喪失した孫権軍は、合肥城を陥落させる事は無理だと判断、疫病が発生した事もあり、遂に退却を開始します。孫権は自ら退却の指揮を取り、1000人弱の兵士と呂蒙・蒋欽(しょうきん)・凌統・甘寧と共に最後に退却しようとしますが、これが裏目に出てしまい、張遼と楽進らに奇襲をかけられてしまいます。更に退却時には、架かっていた橋が3m程撤去されており、窮地に陥ります。

絶体絶命となった孫権を撤退させるため、凌統は腹心の部下300人を率いて奮戦します。孫権が無事退却に成功したのを見届けると、再び戦場に戻り、敵兵数十人を討ち取ります。橋が壊されていたため、鎧を着たまま泳いで帰還した凌統は、全身に傷を負って瀕死の状態でしたが、一命を取り留めました。しかし、凌統は部下が全員戦死した事を知ると思わず涙します。これに対し、孫権は自らの袖で涙を拭い「死んだ者はもう戻ってこない。だが、私にはまだあなたがいる。それで十分だ」と慰めたのでした。この功績により凌統は偏将軍に昇進し、以前の倍の兵を与えられたのでした。

 

正史と演義での甘寧との関係性

 凌統にとって甘寧は父の仇であり、甘寧を恨んでいましたが、正史三国志と三国志演技では二人の関係は異なっています。

まず正史三国志では、甘寧は凌統の仇討ちを恐れ凌統に会おうとせず、孫権も凌統に自重するよう求めていました。しかし呂蒙が宴会を開いた時、凌統が剣舞を舞うことになった際に、甘寧が戟を取ったため一触即発の状況になります。幸い呂蒙がその間に割って入り、その場はそれで済みましたが、孫権は甘寧に半州に駐屯させ、凌統と引き離したといいます。

一方の三国志演義では、父が孫策に従軍した時一緒に付いてきて、父が甘寧に射殺された時は必死でその亡骸を奪い返しています。更に、甘寧が孫呉に降り黄祖を討った時の宴会で、凌統はいきなり甘寧に斬りかかっています。しかし合肥の戦い時、曹操配下の楽進との一騎打ちで、窮地に陥った凌統を矢で甘寧が救ったため、それ以降二人は堅い親交を結ぶという、正史とは対照的な関係になっています。

 しかし、凌統は財を軽んじ義を重んじる国士だと評判でした。精鋭1万人余りを配下に得た後で故郷を通りかかった時にも、役人に対し礼を尽くし、古馴染みにも親しんでいたといいます。また平素から優れた人物を愛し、周りに慕われていたようです。

 

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小説【新境地を垣間見る】

 27歳。この年齢を皆さんはどう思うだろうか。若いし、まだこれからと思う人は多々いるとは思うが、私は若者と乖離しだす魔の年齢、それが27歳だと考えている。言うまでもないが私は27歳、何の取り柄もない男である。

 27歳のある夏の日の事。久々にすっきり目が覚めた朝、私は暫く家の窓からぼんやりと空を眺めていた。青い空、気持ちのいい程の晴天であった。こんな日は外に出ようと思ったがきっと出ないだろう、そう思った。だがこの日は違ったようである。ここ最近は外に出る頻度も減った。趣味の釣りにはめっきり行かなくなった。仕事も負の連鎖から抜け出せず、行き詰った感じである。日々自分に限界を感じていた。

死のう。そう思った。あまりの突然の感情に自分でも驚いた。最近は出不精で無気力な私だったが、こんな日に限って行動的であった。適当な紙を見つけて、私は家族に向けて遺書を書き始めた。誰にも恨みはなく、未来に希望が見いだせなくなり、この先生きていく自信がなくなったから死ぬ事、両親に今まで育ててくれた事への感謝、『もし次生まれ変わっても、父さんと母さんの子供になりたい』と記し、弟へは『俺は先に死ぬが父さんと母さんを頼む。いつでもお前を見守ってるぞ』と書いた。最後に、本当にありがとうと付け足した。

 私は簡単に部屋を掃除して、準備を整えてから家を出る事にした。普段は車移動だが、この日は電車で移動する事にした。家を出る直前に思いだした。買ったまま読まずに放置していた小説が2冊程あったのだ。せっかくだから電車で読もう。こうして私は家を出た。

 最寄りの駅まで20分程歩いた。こんなに歩いたのは久々かもしれない。少し疲れたが晴れていたので気持ちよかった。途中コンビニでお金を下ろし、お茶と弁当を買った。電車の中で食べるためだ。最後の晩餐がコンビニ弁当というのも味気ないかもしれないが、私にはこれで充分であった。駅に着いた。最寄りの無人駅から、各駅停車の電車に乗った。

 私は、以前から一度は行ってみたいと思っていた断崖絶壁スポットを目指した。そこから広がる日本海は絶景のようである。絶景を堪能した後、崖から身投げしようと考えたのだ。まず最寄り駅から各駅停車と急行を乗り継ぎ、1時間程かけて主要駅まで移動する。そこからは特急で目的地の最寄り駅まで行き、最後にタクシーで移動するという計画だった。およそ4時間の道のりである。主要駅まではあっという間に着いた。ここからは特急での移動、少し気持ちが引き締まる感じがした。

 さて話は変わるが、ここで私の自殺に対する持論を聞いてほしい。まず自殺の大多数は単一的な要因というより、複合的な要因の積み重ねから起こるという事だ。例え一つ一つの要因はどんなに些細な物であっても、十分なきっかけになると私は考える。私の場合は、現職が上手くいかなくなる。転職活動に踏み切るも失敗ばかりで貯金も減り、落ち込む時間と焦りが募る。唯一の趣味の釣りに行くも、全く釣れない日や、雨で行かない日が続く。恋人との仲が険悪になる等、こういった感じだ。

もう一点は他人といる時より、一人の時の方が悲観的になりやすく、悩みや鬱憤を抱え込む時間も、年を重ねる事に増えるという事だ。極論を言うと悲観的な性格の人間は、一人暮らしや一人の時間をあまり作らない方がいいというのが私の持論である。

 特急列車での移動中、私は小説に没頭した。家にいた時は全く読書に集中できなかった事が嘘の様である。暫くすると腹が減ったので、弁当を食べる事にした。旨い。ただのコンビニ弁当だが、特急で食べるとこんなにも旨く感じるのか、そう思った。窓の外の景色も良かった。面白い小説に列車から見る綺麗な景色、なかなかいい組み合わせだと思った。こんな感じで私は特急での移動を満喫した。目的地の最寄り駅にも到着したようである。

 最後の移動、タクシーでの車内。運転手は寡黙な人だった。私は自分の27年間の人生を振り返っていた。走馬灯のようだ。最後は自殺という選択をした自分だが、今までの人生はそう悪い物ではなかったように思う。ただ疲れただけなのだ。部活動の帰りらしき学生の集団を見かけた。高校生だろうか。楽しげで光輝いている。彼らにも各々悩みがあるのかもしれないが、やはり彼らの溢れる若さと輝きには到底敵わないと思った。

 20分程走りようやく着いた。今は誰もいないようだ。綺麗だ。断崖絶壁から広がる日本海。聞こえるのは絶えず押し寄せる波の音だけ。私は崖から広がる日本海を静かに眺めた。最後にこの絶景を瞳に焼き付けるためだ。そして脱いだ靴を丁寧に揃えた後、深呼吸をした。覚悟は決まった。私はここで死ぬ。3歩前に踏み出し崖下を見る。

 怖い。私はこんな所から飛び降りようとしているのか。だがここまで来て惨めに引き返せるかと思い、再度深呼吸をした。崖前まで来れば、目を閉じて身を任せるだけだ。頭では分かってはいたが、足が震えてまともに立っていられなかった。その後、崖前まで来ては引き下がりを何度も繰り返したが、結局駄目であった。途方に暮れて日本海を眺めていると、人の声が聞こえた。どうやら若いカップルの様だった。帰ろう、思わず独り言を漏らし、私は帰る事にした。帰りはどう戻ったかあまり覚えていないが、戻った頃には、へとへとに疲れ切っていた事をよく覚えている。

 戻った直後はもやもやした感じが続いたが、この2週間後に高校からの友人と会う事になった。会おうか迷ったが、一人でいても仕方ないと思い気分転換に会う事にした。

当日、映画やボーリング等をした後、夜ご飯を一緒に食べた。何気ない会話から、お互いの状況を話していた時に思わず本音が漏れた。自分に限界を感じる事、投身自殺を図った事等を思うままに話した。彼は心底驚いた様子だったが、私の話を真剣に聞いていた。話し終わって暫くの沈黙後、彼は口を開いた。

「そんな事になっているとは知らなかった。あまり上手く言えないけど、上手くいって当たり前だと思わない事だね。物事いい時ばかりじゃない。ある程度続けている事でも必ず停滞する時期があると思う。頑張れない、踏ん張れない時があってもいいと思うよ。ただ諦めず、腐らず好機を伺う事は大事だと俺は思う。まあ俺も偉そうな事は言えないけど。でもこうして今日、お前に会えた事が何よりも嬉しいよ」

彼の言葉を聞いて、心のわだかまりが少しずつ解けていく感じがした。確かに私は結果がすぐに出ない事に焦りすぎていたのかもしれない。今は好機を伺う時期かもしれない、そう思った。

「ありがとう。お前に相談して心がすっきりしたよ。お前が友達でほんとよかったわ」

こうして、友人とは別れた。

 それからの私は転職活動に邁進した。勿論落ちる事は何度もあったが、受かる事も増えた。落ち込んだ時は「今は好機を伺う時だ」と言い聞かせた。家族に宛てた遺書をそのままにしてた事を思い出し、私はその遺書を破り捨てた。自殺なんて事はもう考えたりしない。自殺を図った事は私と友人だけの秘密だ。新しい仕事が決まれば、会って直接報告したい。そして彼が苦しんでいる時は、どんなに微力であっても今度は私が力になりたい、心の底からそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三国志【龐徳(ほうとく)】関羽と死闘を繰り広げた猛将

 -目次-

馬騰軍の勇将、龐徳

 龐徳は元々、馬超の父である馬騰(ばとう)に仕えており、羌族や氏族の反乱を抑え、功績が認められ校尉に昇進します。

 202年、曹操が袁譚(えんたん)・袁尚を攻撃した際、袁譚らは南匈奴に曹操を裏切らせ、郭援と高幹に数万の軍勢で侵攻させます。この時、馬騰は曹操を裏切って袁譚らに協力しようとしますが、鍾繇(しょうよう)らの説得を受け、曹操側に就く事にします。馬騰は、馬超と龐徳を鍾繇の援軍として派遣し、郭援と高幹を防ぎます。この時に活躍したのが龐徳です。

龐徳は先鋒となって敵軍を大破し、郭援を自らの手で討ち取りました。郭援と鍾繇はいとこだったため、鍾繇は、帰陣した龐徳が弓袋から郭援の首を取り出したのを見るやいなや号泣します。これに龐徳は謝罪しました。鍾繇は「郭援は我が甥とはいえ国賊です。貴公が謝る必要はありません」と答えたといいます。龐徳はこの功績により、更に中郎将に昇進しました。

 208年、馬騰が入朝して衛尉に任命されると、龐徳は留まって馬超に仕えます。

 

仕える君主が変わろうと

 211年、曹操が漢中の張魯(ちょうろ)を討伐しようとした際、馬超・韓遂らが自分達の領土が攻められると疑心暗鬼になった事をきっかけに潼関の戦いが始まります。韓遂とは、馬騰と兄弟の契りを結んだ人物であり、韓遂を中心に西涼の勢力が集まり、連合軍として馬超・韓遂らは曹操と戦います。勿論、龐徳もこの戦いに参加しています。

西涼軍は非常に強く、西涼軍有利で戦いは過激化していきます。馬超は曹操をあと少しの所まで追い詰めますが、惜しくも逃します。しかし曹操軍が策略により、馬超と韓遂を仲たがいさせる事に成功したのをきっかけに、風向きが一変します。馬超は韓遂が、自分を裏切ったと思い込んで韓遂を殺そうとしたのです。この出来事を機に、西涼軍は勢いを失い、最後は分裂して、この戦いは曹操の勝利に終わりました。

 その後、韓遂は馬超に殺されそうになるも曹操に降伏、馬超と龐徳は漢中へ落ち延び、張魯を頼ります。馬超は最終的に劉備に仕えましたが、龐徳はそのまま張魯の下に留まりました。

 215年、曹操が漢中郡を平定した際、龐徳は張魯と共に曹操に降伏し、その家臣となりました。龐徳は曹操にその勇猛さを認められ、立義将軍に任命されました。君主が馬騰→馬超→張魯と変わっている龐徳ですが、最後は曹操に仕える事になります。

 

死闘!龐徳対関羽

 龐徳は于禁と共に、樊城(はんじょう)を守備する曹仁の下に救援に向かい、ここで関羽と戦う事となります。龐徳は、以前仕えていた馬超が劉備の元にいた事から、諸将達から疑われましたが、龐徳は常々「私は国のご恩を受け、命を懸ける事で義を行い、この手で関羽を討つ」と語り、並々ならぬ闘志を燃やして戦いに挑みます。

 ある日、龐徳は曹仁の命令で樊城から10里離れた場所に布陣しますが、長雨の影響で川が氾濫し平地が水没してしまいます。関羽はこれを逃さず船で攻撃、龐徳の軍勢は総崩れとなります。関羽に降伏しようとする配下の将軍らを斬り捨て、龐徳は弓をとって必死に対抗します。

 また孤立無援の中、水没していない丘から、弓矢で反撃を続けた龐徳ですが、夜明けから日没にかけて関羽の攻撃も熾烈を極めたため、龐徳の軍勢の多くは降伏してしまいます。それでも龐徳は、濁流の中で配下の将一人と部隊長二人と共に、関羽軍に対して抵抗を続けながら小舟に乗り、諦めずに曹仁の元に帰還しようとします。しかし、水の勢いで龐徳の小舟が転覆してしまった所を、ついに捕えられました。

 

忠義に死す

 関羽から降伏を勧められた龐徳ですが、「我は国家の亡霊となったとしても、賊将などにはならぬ」と述べ、曹操への忠義を貫いて関羽に首を討たれました。

 曹操は、龐徳の最期の言葉を聞いて涙を流して悲しんだといいます。またこの時に、長年曹操に仕え、活躍した于禁が関羽に降伏してしまった事と、龐徳の死に様を対比し「わしが于禁を知ってから30年になる。危機を前にし困難に遭って、新参の龐徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」とも語ったそうです。

 龐徳はその忠義を高く評価され、後に曹丕が王位に就いた時、壮侯と諡されると共に、子の龐会ら4名も爵位を賜る事となりました。

 龐徳は曹操に仕えた期間こそ短いものの、その武勇と忠義心を高く評価されています。個人的な意見ですが、龐徳は仕える君主には忠誠を誓う武人だったのではないでしょうか。人材豊富な魏の軍勢でも、記憶と記録に残る名将だと言えるでしょう。

 

絵本通俗三国志の龐徳。関羽との戦いで

 『絵本通俗三国志の龐徳。関羽との戦いで』

 

 

 

 

 

 

 

 

三国志【李典】派手さはないが、地道に活躍する名副将

-目次- 

 

従父を殺され李典、参戦

 李典の従父である李乾は、曹操に付き従って活躍しましたが、董卓討伐戦に参加した時に、董卓配下の呂布に殺されてしまいます。李典は若い頃は春秋左氏伝をはじめ、多くの書物に親しむ等の学問を好み、軍事は好きではありませんでしたが、李乾の死をきっかけに、曹操の董卓討伐の義兵募集に応じ、初登場します。

 呂布と戦った際には、曹操ともども窮地に陥りますが、何とか脱出して今度は撃退に成功します。その後は張繍との戦いや、徐州での呂布戦等に参戦し、活躍の場を広げていきます。

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↑『春秋左氏伝

勝利のためなら命令に背く

 官渡の戦いでは、李典は一族と部下を引き連れ、食料や絹等を曹操軍に輸送しました。袁紹が敗れると裨将軍に任命されます。

 袁紹の死後、袁譚・袁尚を攻撃した際は、李典は程昱らと共に兵糧を水上輸送するよう命じられます。これに袁尚は魏郡太守の高蕃に命じて水路を遮断させます。曹操にはあらかじめ「船が通れないなら陸路を行くように」と命じられていましたが、李典は「高蕃の軍は鎧をつけた兵が少なく、水に頼りきって油断をしているから攻撃すれば必ず勝てる。国家の利益のためなら、専断は許される。速やかに攻撃すべきだ」と主張します。これに程昱は同意し、高蕃に急襲をかけて打ち破り、水路を回復させました。

 李典は臨機応変に状況を判断する能力と、時にリスクも顧みない決断力の高さが伺えます。曹操も彼の対応力に感心したことでしょう。

 

戦いは慎重に、用心深く

 博望坡の戦いでは、劉備劉表の命で北進して葉まで来た時、曹操は李典を夏侯惇に従わせてこれを防がせます。退却した劉備を追撃しようとする夏侯惇に、李典は「敵が理由もなく退いたからには伏兵の疑いがあります。道は狭く草木は深いので追ってはいけません」と反対しますが、夏侯惇は聞き入れず于禁を従えて追撃します。李典は留守を任されていましたが、夏侯惇が伏兵により不利な状態に陥いると救援に駆けつけ、劉備を退却させる事に成功しました。

 他にも劉備を攻撃した際、主将の曹仁に、守りを固めるべきとの慎重論を主張するも聞き入られず大敗する等、副将として慎重に戦術を練る事が多かったようです。

 

合肥の戦いで一致団結

 李典はこれらの活躍もあり、曹操からの信頼を獲得していきます。そして李典最大の見せ場が215年の合肥の戦いです。呉の孫権が自ら10万の軍を指揮して、合肥城へ攻めて来るというのです。この時、合肥城には張遼、楽進、李典の3人がいましたが、兵力は7000人弱しかおらず、3人は普段から仲が悪かったため最悪の状況を迎えます。

 張遼は曹操に仕える前は呂布の配下であり、李典は従父の李乾を呂布の配下に殺された過去があり、特に仲が悪かったのです。孫権軍が迫り、曹操から預かっていた命令書を3人で開封すると、「もし孫権が来たならば張遼と李典は出撃、楽進は守りを固めよ」と書いてありました。普段の仲の悪さに加え、10倍以上の敵勢力が目前に迫る危機的状況の中、ついに張遼が口を開きます。

「曹操は遠征で不在、救援が到着する頃には敵は我が軍を破っているに違いない。だからこそ敵の包囲網が完成していないうちに迎撃し、その盛んな勢力をくじいて、その後で守備せよと指示されている。成功失敗の契機はこの一戦にかかっているのだ。」と主張します。李典はこれに賛成し、「国家の大事にあって顧みるのは計略のみ。個人的な恨みで道義を忘れはしない」とはっきり断言します。李典は張遼と共に決死の覚悟で800人の精鋭を率いて出撃し、呉の撃退に成功するのでした。

 

早すぎる最期

 李典は度々出世していますが、学問を好み、儒家やその思想を尊重している影響もあってか、功績を争う事無く、誠実だったため軍中ではその長者ぶりを称えられました。しかし36歳の若さで亡くなり、子の李禎が後を継ぎます。曹丕が帝位に就くと、合肥の功績を思い起こし、李禎に100戸が加増されました。243年には、曹操の廟庭に功臣20人として、李典がその1人として祀られています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小説【飲み会に死す】

 飲み会はあまり飲めない者にとってはこの上ない苦痛な時間です。それが会社の飲み会なら、なおの事です。仕事中の会話とはまた違った難しさ、集団での会話のやりにくさが存在するのです。

 先日、新入社員の歓迎会という事で、その飲み会に参加した時の事です。自分が何故参加メンバーに選ばれたのかは、私にはまるで分かりませんでした。もっと盛り上げ上手や、適任者がいるではありませんか。私が選ばれた意図は皆目見当つきませんでしたが、とにかく行くことになったのです。新入社員は研修で、色々な部署を回っていたようなのですが、私の所属する部署では研修はなかった為、新入社員との面識はありませんでした。ただ今年は体育会系の男性が多く、勢いがあるとの評判でしたので、私は参加が決まった時、薄々嫌な予感がしていたのです。

 歓迎会当日。新入社員7人、社員13人での席でした。新入社員は7人とも男、社員も10人が男という、何とも暑苦しい感じでしたが、新入社員は皆感じのよさげな好青年でした。社員とも気さくに会話しており、良好な雰囲気です。開始早々、私にとって最大の問題はこの場をどう乗り切るか、飲み会が何時間程続くのか、この2点に絞られました。酒が弱く、口下手な私にとっては避けては通れぬ問題でした。そして私の任務は、頼んだ一杯の生中を飲み切る事と、もう誰も食べないであろう料理や、付け合わせを残さずにさらえる事でした。

 

 私はこの場を乗り切るためアイデアを絞り出しました。仲の良い人間がいれば、その人と話していればいいのですが、今日は不在のため、別の手段を考えるしかなかったのです。私は他人の会話にたまに笑いもしながら、相槌を打つ、たまに飲む、残っている料理をさらえる、たまにスマホを覗く、行きたくもないトイレに行く、これらを巧みに織り交ぜ、ひたすら時が過ぎるのを待ちました。トイレに行く頻度が多すぎたおかげで、頻尿というレッテルを貼られました。しかし、私は一つの真理にたどり着いたのです。飲み屋での会話というのは、話を理解できていなくても、聞いてなくても、適当に相槌さえ打っていれば何とかなるのです。たまに笑顔を見せれば最高です。話している人間も、聞いている人間も、会話の内容をよく分かっていないのかもしれません。仕事とは違い、適当でも成り立つのです。大事なのは雰囲気なのだと悟りました。

 

 中盤に差し掛かると新入社員の一人が、大盛りメニューの挑戦を志願しました。いい食べっぷりに見ていて気持ち良かったのですが、活気にあふれた態度と、やはり隠す事のできぬ若さとフレッシュな感じに圧倒され、もう自分も若くないのだと、少し気が滅入りました。

この飲み会には、上司の岡田さんも参加していたのですが、突然「平社員の平田」と呼ばれたのは不意打ちでした。岡田さんが、またセンスのかけらもないギャグを言っておられる、そう思いました。新入社員が何とも言えぬ苦笑いを浮かべているのには、流石に同情しました。岡田さんは仕事もできて、人望もあり、普段はそんな事は決して言わないのですが、たまに酒癖が悪い時は、このような失言をするのです。以前も一度、このような発言があり、後日「昨日なんか言ってなかった?」と聞かれた時があったのですが、流石に正直には言えず、大丈夫でしたよと一言答えた時がありました。今回もどうやらそうなりそうです。ともあれ、適当に受け流しました。

  

 そして、2時間程続いた飲み会も、待ちに待ったお開きの瞬間がやって来たのです。我ながら、よく耐えたと思いました。まさに解放感と心が軽くなった感じがしました。しかし、帰宅して風呂に入っている時の事です。変に生真面目なところがある私は、今日の飲み会での自分を客観的に振り返ってしまったのです。ろくに話せず、発言できなかった自分を惨めに感じ、一瞬死のうかなと思いました。勿論半分は冗談ですが、今日の風呂は地獄のような時間でした。その日は風呂から上がるとすぐに眠りに就く事にしました。真の孤独は集団の中で、疎外感や馴染めないと自覚した時にこそ存在するのかもしれません。