想像のかけら

想像のかけら

自作小説と三国志を中心に、関心事などを投稿します。是非お立ち寄り下さい。

三国志【李典】派手さはないが、地道に活躍する名副将

-目次- 

 

従父を殺され李典、参戦

 李典の従父である李乾は、曹操に付き従って活躍しましたが、董卓討伐戦に参加した時に、董卓配下の呂布に殺されてしまいます。李典は若い頃は春秋左氏伝をはじめ、多くの書物に親しむ等の学問を好み、軍事は好きではありませんでしたが、李乾の死をきっかけに、曹操の董卓討伐の義兵募集に応じ、初登場します。

 呂布と戦った際には、曹操ともども窮地に陥りますが、何とか脱出して今度は撃退に成功します。その後は張繍との戦いや、徐州での呂布戦等に参戦し、活躍の場を広げていきます。

f:id:hachibooks:20200730213440p:plain

↑『春秋左氏伝

勝利のためなら命令に背く

 官渡の戦いでは、李典は一族と部下を引き連れ、食料や絹等を曹操軍に輸送しました。袁紹が敗れると裨将軍に任命されます。

 袁紹の死後、袁譚・袁尚を攻撃した際は、李典は程昱らと共に兵糧を水上輸送するよう命じられます。これに袁尚は魏郡太守の高蕃に命じて水路を遮断させます。曹操にはあらかじめ「船が通れないなら陸路を行くように」と命じられていましたが、李典は「高蕃の軍は鎧をつけた兵が少なく、水に頼りきって油断をしているから攻撃すれば必ず勝てる。国家の利益のためなら、専断は許される。速やかに攻撃すべきだ」と主張します。これに程昱は同意し、高蕃に急襲をかけて打ち破り、水路を回復させました。

 李典は臨機応変に状況を判断する能力と、時にリスクも顧みない決断力の高さが伺えます。曹操も彼の対応力に感心したことでしょう。

 

戦いは慎重に、用心深く

 博望坡の戦いでは、劉備劉表の命で北進して葉まで来た時、曹操は李典を夏侯惇に従わせてこれを防がせます。退却した劉備を追撃しようとする夏侯惇に、李典は「敵が理由もなく退いたからには伏兵の疑いがあります。道は狭く草木は深いので追ってはいけません」と反対しますが、夏侯惇は聞き入れず于禁を従えて追撃します。李典は留守を任されていましたが、夏侯惇が伏兵により不利な状態に陥いると救援に駆けつけ、劉備を退却させる事に成功しました。

 他にも劉備を攻撃した際、主将の曹仁に、守りを固めるべきとの慎重論を主張するも聞き入られず大敗する等、副将として慎重に戦術を練る事が多かったようです。

 

合肥の戦いで一致団結

 李典はこれらの活躍もあり、曹操からの信頼を獲得していきます。そして李典最大の見せ場が215年の合肥の戦いです。呉の孫権が自ら10万の軍を指揮して、合肥城へ攻めて来るというのです。この時、合肥城には張遼、楽進、李典の3人がいましたが、兵力は7000人弱しかおらず、3人は普段から仲が悪かったため最悪の状況を迎えます。

 張遼は曹操に仕える前は呂布の配下であり、李典は従父の李乾を呂布の配下に殺された過去があり、特に仲が悪かったのです。孫権軍が迫り、曹操から預かっていた命令書を3人で開封すると、「もし孫権が来たならば張遼と李典は出撃、楽進は守りを固めよ」と書いてありました。普段の仲の悪さに加え、10倍以上の敵勢力が目前に迫る危機的状況の中、ついに張遼が口を開きます。

「曹操は遠征で不在、救援が到着する頃には敵は我が軍を破っているに違いない。だからこそ敵の包囲網が完成していないうちに迎撃し、その盛んな勢力をくじいて、その後で守備せよと指示されている。成功失敗の契機はこの一戦にかかっているのだ。」と主張します。李典はこれに賛成し、「国家の大事にあって顧みるのは計略のみ。個人的な恨みで道義を忘れはしない」とはっきり断言します。李典は張遼と共に決死の覚悟で800人の精鋭を率いて出撃し、呉の撃退に成功するのでした。

 

早すぎる最期

 李典は度々出世していますが、学問を好み、儒家やその思想を尊重している影響もあってか、功績を争う事無く、誠実だったため軍中ではその長者ぶりを称えられました。しかし36歳の若さで亡くなり、子の李禎が後を継ぎます。曹丕が帝位に就くと、合肥の功績を思い起こし、李禎に100戸が加増されました。243年には、曹操の廟庭に功臣20人として、李典がその1人として祀られています。