想像のかけら

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三国志【賈詡(かく)】洞察力と先見性に優れた策士

-目次-

 董卓配下として登場

 始めは政府の官職に就きますが、後に董卓配下となった賈詡は、董卓が洛陽に入ると校尉となり、董卓の娘婿である牛輔の軍に付きます。董卓が呂布・王允(おういん)らに殺され、牛輔も殺されると、同じく牛輔の下にいた李傕らは逃亡しようとしますが、これを説得し李傕らに策を授け、長安を攻めさせて呂布を追放し、王允を殺して長安を奪回させる事に成功します。

賈詡は混乱した政治の改善に努めますが、李傕に警戒され、次に張繍(ちょうしゅう)に仕える事になります。

 

曹操の刺客として立ちはだかる

 張繍も元々は董卓配下でしたが、曹操に降伏した武将でした。ところが、曹操が亡き族父の妻であった未亡人を側妾にしたため、張繍は恨みを抱くようになり、曹操は張繍が恨んでいる事を知ると、密かに張繍を殺害する計画を立てます。これを知り、反乱を決意した張繍に策略を進言したのが賈詡です。張繍は軍を移動させるのに、武装したまま曹操の陣営を通過させて頂きたいと申し出て、信用した曹操はこれを許可しました。奇襲を受けた曹操軍は総崩れとなり、曹操はかろうじて脱出するも、曹昂と典韋、曹安民を失う事になりました。

 曹操と袁紹が官渡で対峙した際、張繍を味方に引き入れようとする袁紹に、張繍が応じようとすると、賈詡は曹操に降伏するよう勧めます。「袁紹の方が曹操より強大であり、その上曹操とは仇敵の間柄ではないか」と主張する張繍に対し、曹操が天子を擁している事、弱小である曹操だからこそ味方になる勢力を必ず厚遇する事、天下を狙う曹操なら個人的な恨みを水に流す事で、自分の徳を内外に知らしめようとするに違いない事などを理由に挙げます。

張繍は賈詡の意見に従い曹操に降伏すると、賈詡の言った通りに曹操は彼らを優遇しました。賈詡は執金吾に任じられ、以後は曹操の参謀として仕える事になります。

 

曹操配下として活躍する

 200年、官渡の戦いで袁紹軍の許攸が降伏し、袁紹軍の兵糧輸送隊の守備が手薄な事を暴露して、そこに奇襲をかけるよう進言してきた際、曹操の側近の多くが許攸の発言を疑いますが、賈詡は荀攸(じゅんゆう)と共にこの意見を支持しています。曹操は彼らの意見に従い、自ら5000人を指揮して奇襲を成功させ、袁紹軍に勝利しました。この功績が認められ、賈詡は太中大夫に転任しています。

 211年、曹操が漢中の張魯(ちょうろ)を討伐しようとした際、馬超・韓遂らが自分達の領土が攻められると、疑念を抱いた事をきっかけに潼関の戦いが始まります。韓遂を中心に西涼の勢力が集まり、曹操は馬超・韓遂との戦いを余儀なくされます。西涼軍は非常に強く、西涼軍有利で戦いは過激化していき、曹操軍は追い詰められていきます。曹操自身も危うく、馬超に討たれそうになります。

そこで曹操に「離間の計」という策を進言したのが賈詡です。曹操はまず韓遂に、昔の顔なじみで一対一で話がしたいと持ち掛け、韓遂はこれに応じます。他愛もない会話をしただけでしたが、馬超は韓遂を疑い始めます。次に曹操は韓遂に、要所要所で曖昧な表現を使い、文字を修正している箇所をわざと作った手紙を送ります。手紙を見た馬超は、韓遂が自分に知られては困る内容を修正したのではないかと更に疑心暗鬼に陥ります。韓遂自身も勿論、なぜこんな手紙が送られてきたのか分かりませんでした。

そして韓遂が裏切ったと思い込んだ馬超は、韓遂に切りかかったのです。韓遂自身は左腕を切られ、部下も何人か失い、この事がきっかけとなって西涼軍は崩壊しました。その後、韓遂と一部の武将は曹操に降伏しています。馬超と韓遂を仲違いさせる事に成功させ、自軍を危機的状況から勝利に導いたのが賈詡です。

 

後継者選びで曹操に助言する

 曹操の後継者を選ぶにあたっては、家臣の間では長男の曹丕派と、三男の曹植派とに分かれ、盛んに議論が起きていました。曹操から相談を受けた賈詡は即答せず、ただ「袁紹と劉表の事を考えておりました」とだけ答え、袁・劉両家が強大な勢力を誇りながらも、長男以外を後継者にした事で国を分裂・混乱させ、滅ぼされた事を暗に示唆します。賈詡の助言を聞いた曹操は大笑いし、長男の曹丕を太子としました。

 曹丕が文帝として即位すると、大尉に任命されますが、賈詡は自分の立場をわきまえ、警戒心を抱かれないようひっそりと暮らし、私的な交際をしなかったといいます。77歳で亡くなった賈詡は粛侯と諡されました。

 

清代の書物に描かれた賈詡

清代の書物に描かれた賈詡