想像のかけら

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三国志【曹仁】曹操を旗揚げから支えた歴戦の勇将

-目次-

曹操の挙兵時から従う武将

 曹仁は、曹操の養祖父である曹騰(そうとう)の長兄・曹褒(そうほう)の孫にあたり、曹操とは直接の血縁はありません。

190年、各地で董卓討伐の兵が挙がった際、1000人余りの若者を集め、暴れまわります。その後は曹操の配下に入り、別部司馬・行厲鋒校尉に任じられます。

曹仁は武勇に優れ、若い頃から弓術・馬術・狩猟を好み、荒々しい性格でしたが、成長して武将になると、法律を厳格に守り、周りの模範になるよう振る舞ったようです。

 

騎兵を率いて各地を転戦する

 193年の袁術との戦いでは、多くの敵兵を討ち取り、捕獲する等の手柄を立てます。更に陶謙との戦いでは、騎兵を率いて先鋒となり、別軍を指揮して陶謙の部将である呂由を破ります。本軍に合流した後も、大いに功績を挙げています。曹操が費・華・即墨・開陽を攻撃した際は、陶謙が援軍を派遣しますが、曹仁は再び騎兵を率いて、これを打ち破りました。

 194年からの呂布との戦いでは、別軍を指揮して句陽を攻め落とし、呂布の部将の劉何を捕虜にします。

 196年には曹操が黄巾賊を討伐し、献帝を迎えて許昌を都に置いた際、曹仁はしばしば功績を立て、広陽太守に任命されます。しかし、曹操は曹仁の勇気と智略を評価していたので、広陽郡に赴任させずに、騎兵隊を指揮させています。曹仁の騎兵隊が、それだけ優れていた事が伺えます。

 

不利な自軍を励まして奮闘する

197年、曹操が降伏させた張繍(ちょうしゅう)の父の未亡人を側妾にしたため、張繍が反乱を起こします。張繍との戦いで、曹仁は別軍を指揮して攻撃し、男女三千人余りを捕虜にします。曹操が撤退中に張繍の追撃を受けた際、曹昂・曹安民・典韋を失い、軍の士気は低下しますが、曹仁は指揮下の将兵を励まし、奮闘します。曹操は曹仁の働きに深く感謝し、後に張繍を帰順させる事に成功しました。

曹操に進言して勝利に導く

 200年、曹操と袁紹が決戦した際、当時袁紹の下にいた劉備が、多くの諸県を袁紹側に寝返らせていたため、曹操は不安になりました。曹仁は曹操に対し、「劉備が指揮しているのは袁紹の兵ですから、その運用に慣れておらず、戦えば勝てます」と主張し、曹操はこれを受け入れます。曹仁は騎兵を指揮して劉備を破り、離反した諸県を全て帰還させる事に成功します。

 205年、袁紹の甥・高幹の立て籠もる壷関を包囲した際は、曹操は「敵は一人残らず穴埋めにせよ」と命令しますが、攻め落とす事に苦戦します。これに対し曹仁は「城を囲む時には必ず、生きる道を開けておくものです。必ず殺すことを告げて固い城を攻めるのは、良策ではありません」と進言します。曹操がこの意見に従うと、敵は降伏し、曹仁はこの功績により都亭侯に任命されました。

 

曹仁、敗北を知る

 208年、天下統一を目指して南下した曹操軍を、孫権・劉備の連合軍が迎え撃った事で赤壁の戦いが始まります。行征南将軍に任じられた曹仁は、南郡を守り、孫権軍の都督周瑜と戦います。

周瑜が数万の兵を率いて攻めて来ると、曹仁は部将の牛金に300の兵を与え、周瑜軍の先鋒の6000騎の軍勢と戦わせますが、牛金は包囲されてしまいます。これを見た部下の陳矯(ちんきょう)らは青ざめましたが、曹仁は激怒し、陳矯の制止を振り切って、直属の精鋭数十騎を引き連れ、敵陣に突入します。果敢に牛金を救助した後、取り残された兵がいたので再び敵陣に突入して救出しました。動揺した敵軍は後退し、陳矯らは曹仁の勇敢さを「将軍は真に天人の様だ」と称賛しました。

 更にこの戦いで、周瑜の肩に矢傷を負わせ撤退させると、曹仁は周瑜が病に倒れた事を聞き、これを追撃しようとします。しかし、周瑜が姿を現した事で、曹仁は攻撃を中止して退却しました。曹仁は周瑜に重傷を負わせる等、善戦しますが、最後は周瑜・劉備らに敗れ、南郡を失いました。

 

関羽から樊城を死守する

 218年末、当時曹操の支配領だった荊州南陽郡で事件が起こります。劉備配下の関羽と通じていた豪族の侯音らが、過酷な軍務を理由に謀反を起こします。曹操軍に動揺が走った事を勝機と見た関羽は、219年に南陽郡に進軍します。

関羽の進軍を知った曹操は、樊城(はんじょう)を守備する曹仁の下に、于禁を大将にした7軍を援軍として派遣し、曹仁も龐徳(ほうとく)を遊軍として城外に出して関羽と戦わせますが、長雨で川が氾濫し、7軍は水没してしまいます。于禁は高地に上ることで難を逃れますが、関羽が水軍を使って攻撃してきたので、3万の兵と共に降伏。一方龐徳は、最後まで抵抗を続けますが、関羽に討ち取られます。

更に兵糧攻めに遭った事で、食糧も尽きかけ、数千の人馬しか残っていない危機的状況の中、曹仁は満寵(まんちょう)と共に徐晃の援軍が到着するまで軍規を徹底し、兵を鼓舞して、その猛攻を防ぎ切ります。徐晃が外部から関羽を攻撃すると、曹仁も城から出て関羽を攻撃し、関羽を撤退させる事に成功しました。

 

曹操に代わり、曹丕が魏王に即位すると221年、曹仁は大将軍に任命され、次に大司馬に任命されました。56歳で亡くなると忠侯と諡され、子の曹泰がその後を継いでいます。

 三国志演義の曹仁は、負け戦も度々描かれており、損な役回りが多い印象ですが、正史の曹仁は騎兵を得意とし、戦場を転々として数多くの勝利をもたらしています。曹一族随一の五将軍の活躍にも匹敵する、男気溢れる武将と言っても過言ではないでしょう。

清代の曹仁の肖像

清代の曹仁の肖像