想像のかけら

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自作小説と三国志を中心に、関心事などを投稿します。是非お立ち寄り下さい。

小説【スパイ】

 無数の人間がせわしなく移動する東京。彼女を見かけたのは本当に偶然だった。間違いないと思った。今すれ違った女性は3年前にアイドルを引退した五十嵐葵だ。俺は彼女が所属していたアイドルグループのファンクラブに入っていたが、彼女の卒業と同時に退会した。彼女以外の子には興味が持てなかったからだ。彼女の美しさはアイドルを卒業して3年経った今でも健在だった。可愛さと綺麗さをいいとこ取りした容姿。すらっとした体型。帽子を深々と被っていても分かる澄んだ瞳。全て当時のままだった。そこらの一般人とはオーラが全く違っていた。そんな彼女をこんなにも至近距離で見たのだから、冷静さを保てる訳はなかった。この日は友人と会う約束をしていたが、ドタキャンした。今度会う時は飯でも奢ってやろう。『今最優先すべきことは他にある』

 

 普段の優柔不断さは全くなかった。少しでも人混みが少ない所で声を掛けようと思った。この機会を逃せば、一生彼女を見ることはない。潜在一遇のチャンスだと思った。できることなら握手してもらいたいし、ツーショット写真を撮りたい。だが冷静に考えて、今日の俺の格好はどうであろうか。よれたTシャツ、無精髭。友人と会う予定だったとはいえ、男と会うので格好は適当だった。とてもこんな格好で神聖な彼女に声は掛けられなかった。とはいえこのまま潔く引き返すことは出来なかった。心苦しいが彼女の後を少しつけてみることにした。彼女の行動が気になった。

 

 彼女は意外にも電車移動が多かった。アイドルを卒業し、今は女優として駆け出しの彼女。芸能人も電車に乗るんだなと思った。人の多い電車に乗るのは疲れるが、芸能人も乗っているかもしれないと思うと、今度から注意深く周りを見てみようと思った。電車を降りて、駅の改札を出た後は20分程歩いた。そして彼女はあるマンションに入って行った。どうやら自宅のようだった。尾行もここまで。俺も帰ろう。

 五十嵐葵は俺にとって青春そのものだった。高校生の時は彼女の出るライブや番組は見逃さなかった。友達にも1人熱狂的なファンがいた。そいつと話している時、テレビやライブで彼女を見ている時は本当に楽しかった。心の底からウキウキした。彼女のことが大好きだった。そんな高校時代を帰り道で思い出し、懐かしく思った。

 

 それから数日間は彼女のことを考えないようにしていたが、彼女の自宅を知った日以来、彼女をもう一度見たいという気持ちが抑えられなかった。また一目でいいから見たい一心で自宅に通い詰めた。朝から夕方にかけて見かけられそうな一瞬を狙って、片道1時間の道を何度も通い続けた。もちろん見れる保証はどこにもなかったが、それでも諦められなかった。21年間の人生で間違いなく一番狂った行動であった。だがようやく彼女を見れる瞬間がやって来た。その日の彼女は部屋着のような恰好だった。ごみ出しのようだ。今までの彼女とはギャップがあって良かった。貴重な一瞬だった。俺は今日までこの日のために生きてきたのではないか。なかなかに基地外じみた考えだ。

 

 その後は彼女を2回見れた。だがこんな行動も止めなければならない。日に日に罪悪感も増してきた。考えてみると初めて街中で彼女を見かけた日に、自分の身なりのことなんか気にせず、思い切って声を掛けるべきだった。そうしていればこんなストーカー行為なんてしなかっただろうと思った。だが引き返すなら今だ。彼女に会えても会えなくても、自宅通いは今日で最後にしよう。もう一度一目見れるなら、彼女の姿を瞳に焼き付けておきたい。

 

 最後の決行は夕方頃にした。1時間程ねばり諦めて帰ろうとした時、彼女が姿を現した。隣には買い物袋を持った男性がいた。この男性に少し見覚えがあった。帽子を被っている男性も一般人とは雰囲気が違っていた。今売れっ子の人気俳優ではないか。心底驚いた。2人はどこか楽しそうに会話をしているようだった。やがて2人は彼女の自宅へと姿を消した。

 

 俺は彼女のアイドル卒業時のインタビューで彼女が言っていたことを思い出した。アイドルを卒業してからまずやりたいことは普通のデートだと。恋人に手料理も振る舞いたいと。アイドルの恋愛は禁止されているだけあって、彼女の回答に妙に納得したのを覚えている。アイドルを卒業して3年経った今、彼女は自分の願望を叶えたのだろう。帽子を被っていても分かる幸せそうな表情だった。ストーカー行為はこの日できっぱり止めた。

 

 1年後、彼女とその俳優が結婚したことをテレビで知った。なんだか嬉しく思った。当時を振り返って俺は自分の最低な行為を心から反省した。勿論彼女に関する情報は口外していないし、写真等も撮っていない。彼女をつけていたことは自分だけの秘密である。同じ過ちはもうしない。今はこんな自分にも好きな人ができた。もう陰でこそこそせず、正々堂々と自分の想いを伝えたい。